大塚英志「物語消滅論─キャラクター化する『私』、イデオロギー化する『物語』」(ASIN:4047041793)、夏目房之介「マンガ学への挑戦─進化する批評地図」(ASIN:4757140843)

偶然同時に読んでいた二つの本がほとんど同じテーマを扱っていてビックリ。前者の問題意識は「近代的な自我たる作者はこの先の時代にどうなっていくのか」であり、後者の問題意識は「マンガとは近代的な自我たる作者のものか、それともそれを受容する社会のものか」である。もっとも、これらを読んだ私がこのテーマにそれほど関心があるわけではない。D論執筆の現実逃避。


物語消滅論」は三章に分かれ個々の章はまとまっていて分かりやすくて面白いのだが、全体として最後に「近代文学を立て直そう」と言われても、筆者の気持ちは分かるが論拠が不明確で「ん〜〜」という感じ。否定も肯定もしようがない。

第一章は、少なくともある種の物語は工学的に構築可能であるという事実に基づき、近代小説的な「作者」たる「私」が消滅しつつあることを示している。シナリオソフトのアイデアは当然私も持っていたが、それはこの本にあるように物語自動生成や物語作成支援を目的としたものではなく、すでに誰かが書いたシナリオをソフトに入力して「この主人公の行動はこの点で一貫性が取れていない」とか「この部分は順序を逆にした方が面白くなる」等々、シナリオのダメな部分を指摘してくれるソフトである。もちろん問題意識は筆者と同じで、最近のアニメの気の遠くなるほどのつまらなさはどうにかならないのかと思っているからだが。

第二章は、近代的な「私」の成立過程をたどった上で、今日「現実感が薄い」と感じている世代の迷いは決して全く新しいものではなく、明治時代に日本人が一度たどって来た道であることを示している。いきなりLinuxが出てきて大塚英志には似合わないなぁ、と笑った*1Linuxなどの開発に参加している人々は匿名でも無記名でもなくモロに本名で近代的な「個人」として参加しているので、近代的世界と説話的世界の中間状態とは言える。

第三章は、イデオロギーが消滅した現在において物語的な世界観が浸透しており、我々はそれに対する有効な批判のすべを持っていないと主張する。「まぁ、そうかもね」という感じだが、そこでどうして「文芸批評」が出てくるのかがよく分からない。いや、大塚英志がそういうことを言いたがる人であるのは知っているが、単にこの文章の字面のみから文意を汲み取ろうとする私にとっては根拠が不明。

マンガ学への挑戦」は、筆者が全体として何を言いたいのか読者に掴めてくるのが第七章から後なのが問題。しかも全体の構造となる図を示すのが最後の第十章で、これはこのテの少し堅い文章の書き方としては良くない。図は一番最初に示して、以降はトップダウンで話を進めたら良かったかもしれない。あと、各章の最後には「まとめ」の節を作り、その章で言いたかったことをミもフタもなく箇条書きでまとめてくれるとありがたいと思った。

本書は「マンガは誰のもの?作者のもの?社会のもの?」という問いに対して答えを用意することを目的とはしておらず、批評する人間がその構造をメタなレベルで認識することを目的としている。で、まぁそんな構造的な問題意識を持てるのはマンガ評論の最先端にいる人達であって、個々の視点からの批評(例えば産業論や編集者論)すらほとんど現れていない現状においてはチト先走りすぎ、という感じも受けたがそれは夏目房之介の責任というわけではもちろんない。

こうしてみるとプログラムというのは作品であり製品でもあり、べつに作家主義と商業主義という二項構造があるわけでもなく、絶妙な位置にある情報集積体なのだなぁ、と感心したり。もっとも今後はプログラムの時代ではなくデータの時代だ、と言われたりもするわけで、コンピュータの世界はどんどん先へ進んでいくわけだ。マンガの世界でもこの二項構造は徐々に消滅に向かうだろう、という直感。もちろん、現実の構造はかなり強固に残るだろうが考え方としては消えていくだろう、という意味で。

*1:技術者から見れば、民主党がいきなりLinuxがどうのこうのと言い出した時のようなシラけたイタさがある。